「監視」と「教育」 ~ 『モウリーニョの流儀』 ~より [サッカーと教育]
「必要なのは監視することではなく教育することだ。これは親子関係でも同じことだ。私は誰も監視などしない。選手達の性格とパーソナリティを理解し、それに適した関係を築くというのは、我々現代の監督にとっては仕事の重要な一部をなしている。」
モウリーニョがインテルの監督を務めていた当時、怪物や問題児とされたアドリアーノに対して、モウリーニョは規律違反にはきちんとペナルティーを科しつつ、家に電話をかけたりするなどして互いの関係を良好なものにしていった。
チームの結果のために、規律を重んじ、違反した場合は主力であってもペナルティーを科す。その反面、どの選手に対しても相手を理解しようと努め、フェアに接する。その公平さがモウリーニョの指導者としての信頼を集める一因である。
コメントの中で、モウリーニョは「監視」と「教育」とを明確に区別している。
逆に言えば、
「教育」とは「監視」ではない。
教育者やコーチなど、人を導く仕事をする人たちにとって
その二つの違いを忘れてはならない。
選手にミスをする権利を与えてほしい [サッカーと教育]
今月のサッカークリニックは指導者の失敗の特集。おもしろかった。
中でもサンフレッチェユースの森山監督が、トップチームのペトロビッチ監督に言われた言葉が印象的だった。
「選手にミスをする権利を与えてほしい」
その言葉を受けて、「ミスさせないのがミスなのかな」と自身の指導法をふりかえることができる森山監督もすばらしいと思う。
サッカーに限らず、教える側の人間は、ミスをさせないことが指導者の役割だと思っっている。また、対外的な場になればなるほど、ミスをさせることは指導者自身の評価につながるのではないかと恐れたりもしている。
本人のためにミスをすることも考慮して大きく育てる。
これは簡単にできそうで、なかなか難しいことだ。
器の大きな人間が、器の大きな人間を育てることができるのだろう。
Soccer clinic (サッカークリニック) 2012年 02月号 [雑誌]
中でもサンフレッチェユースの森山監督が、トップチームのペトロビッチ監督に言われた言葉が印象的だった。
「選手にミスをする権利を与えてほしい」
その言葉を受けて、「ミスさせないのがミスなのかな」と自身の指導法をふりかえることができる森山監督もすばらしいと思う。
サッカーに限らず、教える側の人間は、ミスをさせないことが指導者の役割だと思っっている。また、対外的な場になればなるほど、ミスをさせることは指導者自身の評価につながるのではないかと恐れたりもしている。
本人のためにミスをすることも考慮して大きく育てる。
これは簡単にできそうで、なかなか難しいことだ。
器の大きな人間が、器の大きな人間を育てることができるのだろう。
Soccer clinic (サッカークリニック) 2012年 02月号 [雑誌]
タグ:サッカー
サッカーから学ぶ受験勉強のコンディショニング論 [サッカーと教育]
スポーツナビのコラムに、日韓ワールドカップの時に韓国がベスト4まで進んだ時のフィジカル・トレーナー、レイモンド・フェルハイエン氏のインタビューが掲載されていました。レイモンド氏はW杯準備期間とW杯期間中に選手の個別トレーニングを禁止するなど、フィジカル的な負荷と、コンディショニングを同時進行でサッカーの中で行った、世界の最前線で活躍するコンディショニングコーチです。
コラムの中に、このような文章がありました。
同じことが、受験勉強の指導においても言えます。
受験勉強は入試という試合のためのトレーニングです。勉強を通じて、頭と心に負荷を与えます。受験の実績を出さねばならない学校や、塾ほど、負荷の高い勉強のトレーニングを生徒に課して、そのトレーニングについてこれる生徒を重視します。そのトレーニングをこなさせるために先生や、保護者は叱咤激励し、順位付けや他者との比較などで、さらに心に負荷を与えます。ただ、サッカーと違うのはコンディショニングにあまり目を向けられていないことです。
私が最近特に感じるのが、負荷に耐え切れず、心のコンディションを崩してしまう人が多いことです。筋肉は負荷に耐え切れなくなると、肉離れなどして切れてしまいます。同様に心も負荷に耐え切れないと壊れてしまうことは想像に難くないのですが、心は目に見えない部分なので傍目にはあまり理解されません。コンディションの低下を「やる気がない」「気持ちが弱い」だけで処理されてしまうこともあります。コンディションの低下とともに勉強の能率も下がります。その結果、精神的に追い込まれる状況に陥ったり、体調を崩したり、心の病を発症してしまうなど、さらなる悪循環を招いてしまいます。
おそらくこれからの受験勉強は、コンディショニングに目を向けた指導も必要になります。そのことについて先ほどのレイモンド氏のコメントの「サッカー」の部分を「受験勉強」、「サッカーの用語」を「心理学の用語」に変換してみるとわかりやすいと思います。
コンディショニングトレーニングの原則という面では、受験勉強のレベルを上げるためには、レベルの上がったアクションを高頻度でやって、それを持続させないといけない。クオリティーの部分と量の部分を受験勉強の中で同時にトレーニングすることが、大原則だ。今まで心理学の用語で語られてきたものを、受験勉強の用語で話していく。これは画期的なことだ。そうすることで、コンディショニングトレーニングを受験勉強に落とし込んでいく。つまりコンディショニングも受験勉強のトレーニングのひとつだということだ。
《参考》
「すべてはサッカーを向上させるために」
オランダ有名コーチが語るコンディショニング論 - (sportsnavi)
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/other/text/201110180005-spnavi_1.html
コラムの中に、このような文章がありました。
コンディショニングトレーニングの原則という面では、サッカーのレベルを上げるためには、レベルの上がったアクションを高頻度でやって、それを持続させないといけない。クオリティーの部分と量の部分をサッカーの中で同時にトレーニングすることが、大原則だ。今まで運動生理学の用語で語られてきたものを、サッカーの用語で話していく。これは画期的なことだ。そうすることで、コンディショニングトレーニングをサッカーに落とし込んでいく。つまりコンディショニングもサッカーのトレーニングのひとつだということだ。
同じことが、受験勉強の指導においても言えます。
受験勉強は入試という試合のためのトレーニングです。勉強を通じて、頭と心に負荷を与えます。受験の実績を出さねばならない学校や、塾ほど、負荷の高い勉強のトレーニングを生徒に課して、そのトレーニングについてこれる生徒を重視します。そのトレーニングをこなさせるために先生や、保護者は叱咤激励し、順位付けや他者との比較などで、さらに心に負荷を与えます。ただ、サッカーと違うのはコンディショニングにあまり目を向けられていないことです。
私が最近特に感じるのが、負荷に耐え切れず、心のコンディションを崩してしまう人が多いことです。筋肉は負荷に耐え切れなくなると、肉離れなどして切れてしまいます。同様に心も負荷に耐え切れないと壊れてしまうことは想像に難くないのですが、心は目に見えない部分なので傍目にはあまり理解されません。コンディションの低下を「やる気がない」「気持ちが弱い」だけで処理されてしまうこともあります。コンディションの低下とともに勉強の能率も下がります。その結果、精神的に追い込まれる状況に陥ったり、体調を崩したり、心の病を発症してしまうなど、さらなる悪循環を招いてしまいます。
おそらくこれからの受験勉強は、コンディショニングに目を向けた指導も必要になります。そのことについて先ほどのレイモンド氏のコメントの「サッカー」の部分を「受験勉強」、「サッカーの用語」を「心理学の用語」に変換してみるとわかりやすいと思います。
コンディショニングトレーニングの原則という面では、受験勉強のレベルを上げるためには、レベルの上がったアクションを高頻度でやって、それを持続させないといけない。クオリティーの部分と量の部分を受験勉強の中で同時にトレーニングすることが、大原則だ。今まで心理学の用語で語られてきたものを、受験勉強の用語で話していく。これは画期的なことだ。そうすることで、コンディショニングトレーニングを受験勉強に落とし込んでいく。つまりコンディショニングも受験勉強のトレーニングのひとつだということだ。
《参考》
「すべてはサッカーを向上させるために」
オランダ有名コーチが語るコンディショニング論 - (sportsnavi)
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/other/text/201110180005-spnavi_1.html